
こんにちは。
神奈川・相模原の里山(相模湖)で自然農を営む「すどう農園」です。
だいたい毎年の立春の頃、昨年収穫したサトイモを食べ終えます。
暑い夏を元気に育ってくれたサトイモです。
感謝を込めて。

皮も剥かずに茹でる。
炭火があれば皮ごと炙る。
皮も美味い。
非常にシンプルです。
米が来る以前の日本列島はサトイモの仲間を常食していたそうです。
お米のように田んぼを整える必要もなく、栽培も簡単。
ただし、米や麦のように蓄えることはできません。
つまり交換価値は低い。
かつての米や塩のような貨幣の代わりにはならない。
つまり、富の蓄積がない。
ということはつまり、国家の基本がつくれないのです。
サトイモの好き嫌いを越えて、これは歴史的に大事なことです。
だから為政者は、芋よりも穀物を作らせた。
それは当然、大規模な生産に向く平野部への集中という形になってくるわけです。
世界4大主食というのがあって、米、麦、そして3番目がアメリカ大陸のトウモロコシ、そして4番目が南太平洋の里芋の仲間なんです。
ところが4番目だけ、里芋は蓄えられません。作るのは簡単です。でも、サトイモばかり作ってしまったら、貯えになりません。貯えとは=富・資本です。社会経済の基盤にならないのです。
そういう視点で見ると、琉球弧からさらに南の方、インドネシアなどに向かっての島々は、かつては小さな国々からなる分散型、移動型の社会でした。それぞれには統治者もいるのですが、この王様が嫌だなと思ったら民は逃げてしまう。そして別のところでまた芋を掘って作っていくというような形です。いま流行している言葉でノーマッドという言い方をしますね。牧民的な、縛られない暮らし。まあ有牧民はどちらかというと北の方ですが、ちょっと似てますね。俗に南船北馬といいますが、南の人たちは移動に船を使い、どこかに行ってしまうわけです。でもそんな自由をやられると大きな国が作れない。
しかし今の経済人類学的な研究では、世界中で米や麦を作るようになった背景には、美味しいという以上に、その背景には、米や麦を作らせておけば支配しやすいということがあるようです。その意味では大豆もそうですね。大豆は中国東北部の、非常にローカルな作物でした。今や家畜の餌や燃料として、戦略的な資源作物として大規模に作られています。
なんにせよ。
山の中でサトイモを作っているような人たちは支配しにくいんです。
生産性も低いから。国家としての蓄積も少ない。そういう人間は放っておいて、ますます世界は平野に人間も富も集中する。平野というのは、大事なことなので繰り返しますが、物差しで測れる。時間も測れる。そうして蓄積された富というものも予測できるし計測できる。そうして今ではお金という形に還元されて利殖つまり価値が増えるものとなりました。
すべては平野の成り行きです。このあたりは別のブログ「文化としての自然農」に書きました。
ちょっと長いけど読んでください。
縄文時代の土偶のボディラインがふくよかなのは、サトイモ類の炭水化物をしっかり蓄えるため。
そして飢餓に耐えるふくよかな体形の者が生き残ったからという説もあります。
もしも古代や縄文がお好きであれば、議論よりも、まずは手を動かそうではありませんか。
大地と対話してみるひとときは、気持ちが良いです。
まずは静かに穴を掘って、地母神に話しかけてみましょう。
ぐうんと穴を掘ると、何かの息吹が聞こえてくるようです。
耳を澄ます、というよりも前身で聴く。
「穴を掘る場所がない」という方も多いでしょう。
私も東京にいたので、お察しします。
穴を掘る場所がなければ、農園に来てください。
たっぷり掘れます。そうして火を焚けば、それだけで何か一歩を踏み出した感じになります。
自然農のお試し体験と説明会でも、穴掘りを良くします。
大きめに思いっきり穴を掘って、たっぷり火を焚くのは、それこそ氷河期を生き延びた古代人の流儀です。大人も子どもも「穴掘りと焚火」というセットには夢中になります。
かくいう私も大好きです。
どうぞご一緒に